珈琲の思い出2

これは不定期連載です。

今回は自宅焙煎の話にしましょうか。

自分の家で買ってきた珈琲豆を挽いて抽出するようになったら珈琲好きとして後に戻ることが出来ないように思われる。やり出すとすぐに調子にのって、「やっぱ自分で淹れたコーヒーが一番美味いな」とか言っちゃうのである。

この頃は特に珈琲専門店に勤めているわけではなく、100%趣味であった。

当時はネルフィルターも持っておらず、ペーパーフィルターで抽出していた。すぐに調子にのって、「ペーパーの折り方で味が変わるな」とか言っちゃうのである。

そんな折、一番付き合いの長い友人Tから自宅焙煎なるものをしていると聞く。

珈琲豆は貧乏人には高い。それを考慮して使う豆をケチって薄く淹れてしまい美味しく飲めなかったなんてこともままあるものである。しかし、珈琲の生豆は安いのである。

「これだ!」と思った私は珈琲豆用の手網と生豆を意気揚々と購入する。まぁなんとも浪漫のない動機から珈琲の焙煎を始めるのであるが、現実なんてそんなものである。

手網焙煎は生豆を買っていた店にやり方が紹介されていて、それを参考にして「とにかくやっていれば出来るだろう」の精神で始めた。初回は網を振る以外何も出来ずあっという間に豆が焦げ焦げのテカテカになる。けど自分で初めて炒った珈琲は美味しいなぁという王道パターンを踏襲しつつ挑戦は続いた。

何度かやっているうちに換気扇やエアコン、窓を開けているなど、風が発生するとうまく出来ないことに気付く。

季節は夏。蝉たちが旺盛を極め、存在意義の確立のために各自に与えられた声帯機能を命を削り震わせている。

この英断をした珈琲好きはきっとそれなりの数がいるに違いない。某珈琲狂(勝手に珈琲界のソクラテスと呼んでいるが)にも珈琲狂いの1エピソードとして登場する。

私の家のコンロは割と高い位置にあったので脚立を立ててその1段目に立って網を振っていた。その脚立の下にバスタオルを敷く。そして部屋の窓を閉めきり、換気扇を消し、エアコンを消す。準備は万端だ。あとは何のためらいもない。隔絶された1人の空間でパンツ一丁になって網を振るのである。滝のように流れ出る汗と珈琲豆が振られるシャカシャカという音、そして外から聞こえる蝉の声。「これが日本の夏か」という新しい認識。

何度かやった後、「暑いし煙いし窓くらい少し開けてもいいんじゃね?」と油断し、台所にある小さな窓を少し開いてやったことがある。

脚立の1段目に立ち、一心不乱に網を振る青年(この頃は青年であった)。高くなった視線からふと窓の外を見下ろすとバッチリと目が合う散歩中のお婆ちゃん。滝のように流れ出た汗でドロドロの顔。コンロの火の上でシャカシャカと音を立てる珈琲豆。

うまく説明できないが、何かヤバイことが持ち上がりつつある状況だった。目が合っていたのは一瞬のはずだが、私もお婆ちゃんも何かヤバイことが持ち上がりつつある状況だということをお互いが感じていたことを悟っていた。お婆ちゃんからはおそらく私の臍までは見えない角度であり、同時に私が手に網を持って何かを焙煎しているという光景も小さな窓の隙間では見えない状況であった。これは、とにかく何かヤバかった。

その一瞬、私という主観とお婆ちゃんという主観がお互いの意識を交換し合い、主観観測上の主観を客観にし、間も無く客観から主観に戻ることを繰り返した。映像で言えば私とお婆ちゃんの顔のアップが徐々にスピードを上げながら瞬く間に入れ替わっていた。それが集束しきった正に一点で、この時2人は、お互い何も見なかったことにしたのである。

お婆ちゃんは視線を戻して一歩を踏み出し、私の視界から消えた。私は珈琲豆に視線を戻し、目に汗が入らないよう目を細めたのである。

珈琲の思い出は数あれど、これほど人間の意識の不思議に迫ったものはない。

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