珈琲の思い出4

今回は逃げ込める喫茶店の話。

喫茶店好きになれば特にお気に入りの一軒や二軒はやはりあるものである。「美味しい珈琲が飲みたい時に行く店」「長時間作業しても大丈夫な店」など気分や場合によって色々と使い分けるのが道理であるが、私の場合はその中に「逃げ込める喫茶店」と呼ぶジャンルがある。時に喫茶店は個人にとってなくてはならない場所になりうるのである。

個人的意見として、逃げ込める喫茶店には基本的に1人で行くのが良い。誰かと行って変に記憶に残ると、良きにしろ悪しきにせよ、影に追われる。結局は、何も残らない場所であると良い。

それと大事なのは放っておいてくれる店であること。やたら気にかけられて「どちらからいらっしゃったんですか?」やら「何のお仕事されてるんですか?」やらそんなのは顔を覚えられてからそういう自然な流れで話すのでもなければ聞かれぬのが良い。自宅でも職場でもない場所で他人と他人が1人と1人でいられる店が良い。

知った風に続けさせてもらうと、こじんまりとした店が良い。様々なサイズ感が人1人分に収まっていると居心地が良い。

関わることは少ないので矛盾するようだが、店のマスターは癖のある人物が良い。変な人間であればあるほどその店でのひと時は不思議と安らぐものになる。常識非常識という言葉を使うのであれば非常識。その非常識さが店という異空間を際立たせるのである。

近所にそういった店を見つけるのは至難の技であるが、まぁ大抵は町街に一つはひっそりとこびりつくように営業しているはずだと信じている。私も今の在所に越してから長くなり、そういった「逃げ込める喫茶店」を一軒確保している。

その店は古くて狭くて汚い。席は詰まっていて全ての席に人間が座ると16人は座れるはずだが、実際にその光景を見たことはないし、16人がその空間を共有できるなんてとても信じることはできない。せいぜい6人入ったらいっぱいいっぱいである。

全面木目ばりの店内では音楽が爆音で流れていて、席に着くと、マスターがメニューを持ってくる時に「音楽を大きめの音で流しておりますので」と一言ことわられる。顔を覚えられると言われなくなる。

こういったやり取りの最中に声が聞こえず聞き返すと、怒鳴るように繰り返され、続けて、「すみません!カツゼツが悪いもんで!」と言われる。

過去にこれが聞きたくてわざと聞き返したこともある。様式美である。こちらも常連ぶってくると、初めてきたお客さんがマスターとのこのやり取りに面食らっている(何せ怒っているように怒鳴るのだ)のを見て微笑ましい気分になる。滑舌は悪い。

長らくポツポツと通っていたが、3、4年経った頃に頻繁に通っていたらいつの間にか顔を覚えられた。全然人の顔を覚えないマスターである。

ある時諸事情あり、部屋に置いている楽器類(ギターベース太鼓)を全て持ち出して夜逃げのごとく店に行ったことがある。さすがのマスターも少し目を丸くして驚いたが、しばらく黙ってこちらを見た後、一つ頷いて、「なるほど」と言った。こちらは何も言わなかったが、これは何を分かったのか謎である。今思うと「承知」ではなく「許容」のタイプの「なるほど」だったのかもしれない。

これは割と最近の話になる。その店では中古CDやレコードの販売をしていてマスターのいない時にその内の一枚を買おうとしたらアルバイトの方では値段が分からず、取り置いてもらうために名前を書いて頼んだことがあった。実に微笑ましい形での名前バレである。

その数日後、店で珈琲を飲んでいると急にマスターから「古屋さん」と呼ばれた。心底驚いた。名前で呼ばれたこともそうだが、マスターから声をかけてきたのさえ初めてだったのではないだろうか。しかも対面に座ったのだ。そのまま「あのー、週1回、2、3時間!店番!」と言われた。

最初こそ呆けたが、すぐに長らくこの店に通った者ならではの頭が働き、何を言いたいのか分かった。店のアルバイトに誘われたのだ。

「いや、俺も喫茶店をやっていて」と言ったが、「あー!そうなの!じゃあちょうどいいね!」と無邪気に言われた。続けて「ウチは楽だよ!煩わしいこと一切なし!」と売り込まれた。非常に魅力的な提案であったが結局断った。

 

逃げ込める喫茶店では多くは本を読む。飽きたら窓から通りを眺める。その季節ごとの町の空気が通りを行き交う人々の宙に浮かんだ思考を押し分けるように動いていて、それははっきり粒子なのだと分かるほどこの店の窓越しからは色々なものがボヤけながら明確に見える。古い夢のようなものなんだと。

ちなみに今も足繁く通っている。ある時はマスターが買い物に行く間の店番を頼まれて(お客さんは1人も来なかったが)、そのお礼に板ガムを一枚もらった。

良い店である。

 

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